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宮内庁治定 長屋王墓

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記事ID:0001091 更新日:2021年1月25日更新

長屋王墓写真

区分 墳墓
員数 一基
所在 平群町 梨本 字前
758番地
所有 宮内庁

 平群谷の北より、矢田丘陵より西に長く延びる丘陵の南斜面裾にある塚で、直径15m、高さ1.5m程の円墳状をしている。宮内庁により明治34年に、奈良時代初期の皇親政治家、長屋王の墳墓に治定されている。現在は方形の石垣と生垣で囲まれ、南側に参道が取り付いている。
 『続日本紀』神亀6年(729)には、正妻の吉備内親王と共に「生駒山に葬る」とのみ記され、明確な葬地は示されていない。そして、約千年後の江戸中期にまとめられた『大和志』に、「双墓 梨本村にあり一は長墓と称し左大臣正二位長屋王、一は宇司墓と称し二品吉備内親王‥‥‥」と記され、梨本の2つの塚が夫妻の墓とされている。

昭和初期の景観写真
昭和初期の長屋王墓(右端)と吉備内親王墓(左端)

 明治26年の野淵龍潜の調査では、丸石で三重に囲まれた塚となっているが、同32年の平群村の調査図ではこんもりとした塚状に描かれている。そして、大正2年の報告に、近年宮内庁が整備したと記されている。以後、王の命日にあたる3月20日前後、宮内庁により長屋王正辰祭が墓前にて営まれている。
 なお、王墓の下には削平された前方後円墳(前方部を西に向け、全長約45mで、周溝をもち、葺石・円筒埴輪・須恵器を配置す。6世紀前半の築造。)の梨本南2号墳が埋まっていることが確認されている。
 長屋王墓との関係は不明であるが、梨本南2号墳は付近に分布する後期古墳群の初出である可能性もあり、墳形とともに注目される古墳である。