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町指定 信貴山城(しぎさんじょう)跡

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記事ID:0001090 更新日:2021年1月25日更新

信貴山全景(東より)写真
信貴山城全景(東より)
[左が雌嶽、中央が雄嶽で、右側に松永屋敷の所在する尾根が延びる。]

区分 町指定/史跡
員数 1
所在 平群町信貴山2280-1
所有 平群町信貴山2280-1
信貴山朝護孫子寺
指定 平成 5年 4月12日
時代 室町~安土桃山時代
その他  

信貴山全景(北より)写真
信貴山城全景(北より)
左下が松永屋敷の尾根

 生駒山地の南東、信貴山雄嶽(おだけ)(海抜433m)を中心にした城跡で、東西550m、南北700mあり、奈良県で最大規模の中世城郭である。
 建築物は残されていないが、信貴山朝護孫子寺の境内地として破壊を免れ、堀・土塁・門・多数の削平地(曲輪・郭/一部に礎石群(埋没)あり)がほぼ完存しており、縄張りの全容が確認できる。
 南都北方に築城された多聞城の記録からみて、最高所の雄嶽山頂には小規模な天守(高櫓)が建てられていたと考えられている。また、近世に描かれた古城図に「松永屋敷」の記載があり、北側に延びる主尾根には土塁を配した門の取り付く広い郭が並び、松永久秀の居館施設が建てられていたと推測されている。石垣は1箇所のみで土留めに用いられるのみであり、基本的に土で造られた城郭である。
 城郭史としては、楠木正成の築城伝説があり、天文5年(1536)6月までに木沢長政が入城して大規模に築城する。同10年8月に山城笠置城に移るまで居城とした。しかし、同11年3月の河内太平寺の戦いで敗死、信貴山城も落城(炎上)している。
 その後、永禄2年(1559)以降に三好長慶麾下で力をつけた松永久秀が大和の支配を目指して入城整備し、当城と南都北方に築城した多聞城を拠点に大和の支配に乗り出す。
 同11年(1568)6月に三好康長に攻められて信貴山城が落城するが、まもなく足利義昭を奉じて上洛した織田信長に帰属し、その加勢を受けて回復している。
 天正5年(1577)、上杉謙信の上洛軍に合わせて石山本願寺攻めの陣を退いて籠城し、織田信忠軍の大軍に包囲されて10月10日に落城、久秀は信長の望んだ平蜘蛛(ひらぐも)茶釜と共に爆死したとされる。城域内の谷筋からは茶臼の破片が採集されており、茶人としての久秀を彷彿させる。
 雄嶽山頂より一段東に下った郭跡に縄張り図を載せた解説板を設置している。