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町指定 金勝寺(きんしょうじ)磨崖石仏群(まがいせきぶつぐん)

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記事ID:0001071 更新日:2021年1月25日更新

金勝寺磨崖石仏群写真
金勝寺磨崖石仏群

区分 町指定/彫刻
員数 一ヶ所一括
所有 平群町椣原53番地
椣原山 金勝寺
指定 昭和53年 8月11日
時代 鎌倉時代から江戸時代
その他 金勝寺境内

茶々逆修石仏・銘文拓影写真
茶々逆修石仏・銘文拓影

 金勝寺金堂の西側、巨岩の露頭面に多数の磨崖仏が刻まれている。鎌倉時代後期から江戸時代前期にかけての造物で、おおむね、右上から左下方へと刻まれている。
 右上部、山型の龕(がん)内に高さ88センチメートルの宝篋印塔(ほうきょういんとう)を納め、中央上部には高さ60センチメートル、幅64センチメートルの方形彫り込み内に像高56センチメートルの阿弥陀座像を陽刻する。宝篋印塔の右下には線刻の不動明王立像(高さ約1.77メートル)を刻み、「快憲」の銘が陰刻される。この上部には長方形の彫り込み内に六体の如来座像が刻まれている。以上が鎌倉後期頃に彫られた一群である。
 その後、右下方に丁寧に刻まれた地蔵立像がある。彫り込みの高さ88センチメートル、幅47センチメートル、仏身70センチメートル。「茶々逆修/天正十四年(1586)丙戌卯月廿四日」の銘があり、上部には庇を取り付けたとみられる横長のほぞ穴がうがたれている。『多聞院日記』によると、戦国末期に平群谷を支配した嶋左近清興の妻が「ちゃちゃ」であり、その逆修供養仏の可能性が考えられる。
 また、左下方にはやや遅れて戦国末から江戸初期にかけての地蔵や如来立像が多数彫られている。
 磨崖仏群の前には金勝寺の催事用の井戸があり、石蓋が乗せられている。この加持水用の井戸を守るかのように諸仏が刻まれている。