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国宝 紙本著色(しほんちゃくしょく)信貴山縁起(しぎさんえんぎ)[信貴山縁起絵巻]

「飛倉ノ巻」写真1
「飛倉ノ巻」(部分)倉を乗せた鉢が飛び上がる
区 分 国 宝/絵 画
員 数 3 巻
所 有 平群町信貴山2280番地
信貴山朝護孫子寺
指 定 明治32年 8月 1日
昭和26年 6月 9日
時 代 平安時代 後期
その他 奈良国立博物館に寄託毎秋、霊宝館で一部が里帰り展示される。
 平安時代、延喜(えんぎ)年間に信貴山で毘沙門天(びしゃもんてん)を祀り、不思議な法力で寺を中興した命蓮(みょうれん)上人(しょうにん)の事績を物語風に描いた絵巻物。
 「飛倉(とびくら)ノ巻」(山崎長者の巻)「延喜加持(えんぎかじ)ノ巻」「尼公(あまぎみ)ノ巻」の三巻からなり、日本の絵巻物における最高傑作で、日本上代の世俗画の到達点といわれる。自然風景の描写だけでなく、すべてに写実的に描かれ、建築史・風俗史の研究資料としての価値も高く評価されている。「延喜加持ノ巻」と「尼公ノ巻」には、絵巻の途中に二段の詞書(ことばがき)があり、描かれた内容を理解することが出来る。
 「飛倉ノ巻」は、この詞書を欠くが、『宇治拾遺物語』に同じ内容の記載があり、詞書の内容を確認することが出来る。鳥羽僧正覚猷(かくゆう)の執筆ともいわれるが作者は未詳で、平安後期(12世紀後半)に描かれたと考えられている。
 
「飛倉ノ巻」 縦31.5cm、長さ827cm。
 信濃の国より奈良に来て東大寺で授戒した法師(命蓮)が、帰郷を思いとどまり大仏の前であちこち見ていると坤(未申(ひつじさる):南西)の方向にかすかに信貴山が見えた。そこで修行 する内に小さな厨子に入った毘沙門天を得、ささやかなお堂を建てて一心に修行を行った。
 山の麓に長者が居り、その元に命蓮上人が托鉢(たくはつ)のために飛ばした鉢が飛来するが、長者は度重なる托鉢を嫌って瓦葺きの米倉に鉢を閉じこめてしまう。
 絵巻はこの場面から始まっており、倉から鉢が飛び出し、蔵を乗せて信貴山へ飛んで帰ってしまう。長者は馬に乗り、あわてて従者とともに後を追い、信貴山に登って命蓮に倉を返すように懇願する。命蓮は倉は返さないが、蔵の中にある米俵は返すと約束し、長者の従者に俵を一つ鉢に乗せるように指示する。すると、俵を乗せた鉢が米俵を従えて飛行し、長者宅に帰り着き、下女達が驚き喜ぶ様子で締めくくられる。
 
「飛倉ノ巻」写真2 ←米俵を返すから、鉢に俵を乗せるように
 指示する明蓮上人。
「飛倉ノ巻」写真3 ←鉢を先頭に、飛んで帰ってきた米俵に
 驚く長者宅の女たち。
 瓦葺き、校倉造りの立派な倉や当時の長者クラス(油商人)の生活実体が丁寧に描き込まれており、宗教説話を越えた価値がある。
 
「延喜加持ノ巻」  縦31.25cm、長さ1270.3cm。
 時の帝、醍醐(だいご)天皇が病となり、高僧の祈祷(きとう)を受けるが、改善せず、信貴山で法力を駆使する命蓮に白羽の矢が当たる。絵巻は、信貴山に向かう勅使一行の姿で始まり、入れ違いに宮中に入る高僧と、これを噂の種にする庶民の姿がある。勅使は京都より遙々(はるばる)信貴山に赴き、命蓮に帝の病気平癒を依頼する。命蓮は、自分は京都に行かないが、ここで祈祷すると答え、勅使は合点がいかないながらも京都に戻って報告する。
 そして、三日ばかりして信山より都へ剣鎧護法(けんがいごほう)が飛行する。たくさんの剣を鎧にした童子が、輪宝を廻しつつ天を懸け、宮中で帝の枕元に立つと、帝の病気は全快する。
「延喜加持ノ巻」写真1 「延喜加持ノ巻」(部分)
← 信貴山に向かう勅使一行
「延喜加持ノ巻」写真2 ←信貴山より京都へ向かう
 剣鎧護法(けんがいごほう)童子
「延喜加持ノ巻」写真3 ←信貴山にお礼に訪れた
 勅使に会う明蓮上人
 帝はたいそう喜ばれ、僧正の位や荘園を授けようとお礼の勅使を使わすが、命蓮はこれを受けず、その欲のなさが強調されている。
 ここでも、命蓮の法力の強さと共に、宮中の様子が克明に記され、資料的な価値も高い。
 
「尼公ノ巻」  縦31.5cm、長さ1416cm。
「尼公ノ巻」写真1 弟の消息を訪ねて信濃の国を出る尼君一行
 20年も前に、大和国へ得度するために旅立った弟の消息を訪ねようと、従者を連れて姉の尼公が信濃の国を後にする。道中、街道沿いの民家で命蓮の消息を聞く尼公の姿があり、応対する人々の暖かい様子が描かれている。そして鹿の群が描かれ、奈良に入った様子が暗示される。東大寺大仏の前でぬかずく尼公の姿があり、命蓮の消息をたずねて祈るうちに、仏前でまどろみ、夢枕で大仏に西の方、紫雲たなびく山に命蓮の存在を暗示され、西を目指して出立する。ここでは、大仏の前で複数の尼公が描かれ、「異時同図法」により時間の変化を表現している。
 尼公は信貴山に至り、無事命蓮に会うことが出来、土産のあたたかな「たい(祇=僧衣)」を渡し、再開を喜び合う。尼公は信濃に帰らず、命蓮と共に信貴山で信仰生活を送ったのである。命蓮はこの「たい(祇=僧衣)」をずっと着続けたためすっかり破れてしまう。人々はこの切れ端をお守りとし、あの飛倉も朽ちやぶれてしまうが、その材の破片も持ち帰ってお守りにしたのである。巻末には荒れ果てた倉の屋根が描かれ、命蓮の遷化を暗示している。
 ここに描かれた東大寺大仏殿は、治承4年(1180)に平重衡(しげひら)の南都焼き討ちの際に焼け落ちる以前の建立当初の姿を描いた唯一の資料であり、道中の商家、農家、職人の家と庶民の風俗など、当時の庶民の生活が伺え、民俗的資料としての価値も高い。
「尼公ノ巻」写真2 東大寺大仏に念じる尼君
「尼公ノ巻」写真3 信貴山で命連に巡り会う尼君
文化財